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ポニェ・ヤート王の話(Sopheak Kean)

 14世紀後半、シャム(アユタヤ朝)によるカンボジア侵攻が激しくなっていました。シャム王パラマラージャUがアンコールに攻め込み、時のアンコールの支配者スレイ・ソリヤヴォン王は壮絶な戦死を遂げました。
 アンコールはシャムの支配下に置かれましたが、スレイ・ソリヤヴォン王の子、ポニェ・ヤートが王となり粘り強く戦い続け、ついにはアンコールを取り戻します。しかし、ポニェ・ヤート王はカンボジア人にとっての栄光の都であるアンコールを捨てる決心をしていました。
 たび重なるシャムとの戦争でカンボジアは疲弊しきっていました。アンコールの都はカンボジアの輝かしい歴史の舞台でした。ジャヤヴァルマンZやスールヤヴァルマンUなどの歴代の王が周辺諸国へ覇を唱えた都でした。アンコールワットなどその栄光を示す様々な建造物も残されていました。
 ただ、シャムに近すぎたのです。ジャヤヴァルマンZやスールヤヴァルマンUの時代のようにカンボジアが力を持っていれば問題はありませんでした。攻められる側ではなく、攻める側だったからです。しかし、シャムが力を着けたその時代、カンボジアは攻められる側でした。アンコールの都を再興しても、シャムが攻め込めばまた破壊されてしまうのです。そんなことを繰り返せば、カンボジアの人々は苦しみ続けなければなりません。再建と破壊の繰り返し、それに伴う人々の疲弊を考え、ポニェ・ヤート王はカンボジア人にとっての栄光の地、アンコールを捨てる決心をしました。
 ポニェ・ヤート王が初めに選んだ都はスレイ・サントーのトゥオル・バサンでしたが、河川の氾濫がたびたび起こる地でした。そこで、ポニェ・ヤート王はオクニャ・ポニェ・キエウとオクニャ・ポニェ・ケーに命じて新たな都を探させました。
 二人は国中を探しまわり、プノンペンこそが新しい都にふさわしいと考えました。プノンペンはメコン河、トンレサップ河、バサック河など4つの川が交わる地点にあり、水上交通の要衝でした。たくさんの華僑が住み、日本人やヨーロッパ人も訪れ、様々な物資や富が集まる商業の中心地で、情報も集まる街でした。
 プノンペンの名前はドン・ペン(ペンおばさん、ペン夫人)の丘を意味し、ドン・ペンが川を流れてきた仏像を見つけ、近くの丘に手厚く祭ったことからつけられたといいます。ドン・ペンが建てたワット・プノムがありました。敬虔な仏教徒であり、仏教による国造りを目指しているポニェ・ヤート王にとって、そんなプノンペンは新しい都にふさわしい街に思えたのです。ポニェ・ヤート王はプノンペンにワット・ウナロムなどいくつかのお寺を建てたり、古いお寺を直させたりしました。
 ただ、プノンペンもまた低湿地にあり、雨季には洪水に襲われました。ポニェ・ヤート王はその水を農業に使うべく、用水路の整備を行いました。しかし、プノンペンの都も長くは続きませんでした。水上交通の要衝ということは水軍に攻められやすいということでもあります。メコンの制水権を確立出来れば問題はないのですが、制水権を失えば都の維持は困難でした。
 ポニェ・ヤート王が都と定めたプノンペンもベトナムやシャムに攻められ、長持ちはしませんでした。その後、ロンヴェーク、ウドンなどに都は移されました。そして、再びプノンペンに都が戻ったのは19世紀のこと、フランスの制水権を背景にしてのことだったのです。
 ポニェ・ヤート王によるアンコールからバサン、プノンペンへの遷都により、カンボジアの歴史はアンコール期からポスト・アンコール期に入ることになります。

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